ウクライナの起源、キエフ公国とは?


ウクライナの起源、キエフ公国とは?

今ロシアが、ウクライナの首都キエフなどに侵攻して、世界的な話題になっています。

そんなウクライナの起源でもあるキエフ公国について、簡単に解説してみたいと思います。

   

キエフ公国の建国
キエフ公国は、ゲルマン民族(ノルマン人)で、ヴァリャーグ(バイキング)の長であるリューリクが創設したリューリク朝によって始まりました。

また当時のキエフ周辺は、スラブ系諸民族が紛争を続けていて、治安も秩序もないような状態でした。

そして、スラブ系諸民族からの依頼により、優れた統治組織を持ち近隣の巨大勢力でもあったバイキングのリューリクが、彼らを穏便に統治することになりました。
(リューリク朝の下、スラブ系諸民族などをゆるやかに統治した。)

         

キエフ公国の発展
その後、リューリク、イーゴリと続き、イーゴリの息子で、リューリクの孫であるスヴァトスラフ1世から、正式な記録が残されるようになります。
(リューリク、イーゴリについては、伝承のみで正規史料はありません。)

またリューリクの息子イーゴリ王の時に、幼王イーゴリの摂政であり、リューリクの親族でもあったオレグ公が政権を預かり、キエフ大公国(正式名:キエフ・ルーシ)を建てました。

そして、オレグ公の死後、成長したイーゴリに政権が返還され、正式な記録が残るスヴァトスラフ1世の時代へと続いていきます。

リューリクの孫であるスヴァトスラフ1世は、東のトルコ系民族であるハザールとの征服戦争に勝ち、初めてキエフ公国の領土を広げます。

そして、スヴァトスラフ1世の息子でキリスト教の聖人でもあるウラジーミル1世(ウラジーミル大帝)の時代に、キリスト教が国教となり、キエフ公国の全国民にキリスト教が広められました。

さらに、ウラジーミルの息子の賢王ヤロスラフ1世の時代に、最盛期を迎えます。

     

キエフ公国の崩壊
ヤロスラフ1世以降の11世紀後半からは、有力な貿易相手である東ローマ帝国の衰退による経済状況の悪化、モンゴル民族からの侵攻による疲弊などもあり、国力はどんどん衰退して崩壊(モンゴル人の侵攻による国の崩壊)へと至ります。

     

リューリク朝のその後
キエフ公国の正式名ルーシは、現在のロシアの国名の元でもあり、モンゴルによって滅ぼされたリューリク朝の一派は、モスクワ大公国を1263年に建てます(1598年リューリク朝断絶)。

またリューリク王朝の血筋は、ロシア最後の王朝ロマノフ朝まで引き継がれます。

      

このようにロシアの王朝も、元はキエフ公国の王朝であり、キエフ公国はウクライナの人々にとっても心のアイデンティティともなっていて、昔からロシアとウクライナの関係は近かったと言えます。

      

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